スポーツと宗教についての話。
最近、スポーツと宗教について考えます。
私自身は特段、何を信じているというわけではありません。
なんとなく神社にもお寺にもお参りには行ったりするし、教会へお祈りも行ったことがあります。
厄年であればお祓いをしてもらいます。
でもそれらが厳密にどの流派なのかとかは全然わかっていません。
まあ日本人のほとんどはこんな感じではないでしょうか。
なんとなく、神様や仏様にお祈りはする。ぐらい。
しかし、宗教は過去には大きな争いを生むきっかけになったり、今でも多くの人が自分の信じるものを持っていたりします。
日本は特殊ですが、海外の人は宗教と深く繋がっていますよね。
スポーツの大会の時も競技前に十字を切って祈ったりする場面がテレビに映し出されたりします。
ではスポーツの中では宗教はどのような意味を持つのでしょうか。
正直私は宗教については深く知りません。
勉強不足です。
いつかもっと詳しく学びたいと考えています。
宗教については詳しくありませんが、私はスポーツ心理学を学んでいました。
自分自身がスポーツの中で自分のメンタルをコントロールできず、実力を発揮できないと言う場面が多く、そういったことがきっかけでスポーツ心理学を学んでいました。
スポーツと心理はとても深い部分で繋がっています。
そういった、心理的な側面から考えてみるとスポーツにおいて、宗教は大きな役割を果たしていると考えられます。
それは、宗教が「絶対的に信じられる柱となり得る」ということです。
スポーツでは「心技体」という言葉があるように、心は何より一番大切とされ、心理的な強さが競技の強さにつながります。
では、どういったものが心の強さなのでしょう。
心の強さといっても様々な要素があります。
その一つとして、「信じる柱を自分の中に持っていること」というものがあるでしょう。
信じる柱、自分のよりどころとなるものをひとつ持っている人はメンタルを強く保つことができます。
例えば、自分を応援してくれる仲間や家族、恋人。
これらは、絶対に信じられる強い柱となるでしょう。
また、これまでの自分の努力。
これも自分の中で強い柱となるでしょう。
しかし、この努力においては、もちろん自分を信じられるだけの努力を積み重ねていなければなりません。
他にも、ルーティン。
靴紐の結び方や着るもの、どっちの足から会場に入るかなど、ルーティンを持っている人もいるのではないでしょうか。
これも「ルーティンをした」ということをよりどころに、自分を信じる気持ちを強く保っていると言えるでしょう。
これを宗教で考えてみると、
「神様は私を守ってくれている。だから私は頑張ることができる。」
「私はこれだけ頑張った。神様はそれを見てくれている。」
「私の祈りを神様は聞いてくれている。必ず叶う。」
などのように、宗教と神様を柱として、自分の心を強く保つことができます。
さらに、宗教や神様を信じることは他の柱に比べても非常に強いよりどころとなります。
何よりも強い柱として、自分の心を強くすることができます。
アスリートはこれらのような、よりどころとなる信じる柱が多ければ多いほど、心を強く持って競技に望むことができます。
そういった意味で、非常に強い柱となりうる宗教はスポーツの中で大きな意味を持っているでしょう。
だからと言って、何か急に宗教に入信しよう、ともいかないのが宗教です。
ここではスポーツと宗教について考えてみました。
スポーツにおいて宗教は大きな意味を持ち、アスリートを強くするでしょう。
しかし、大事なことは宗教そのものではなく、「信じる柱」があるかどうかです。
この「信じる柱」を増やしていくことがアスリートにとっては非常に大切なことです。
そして、この柱は自分で気づいていないだけできっと誰もが心の中に持っています。
それを自覚することでさらに強くなることができます。
今一度、自分の心の中の「信じる柱」を探してみてください。
少しでも誰かのためになれば。おわり。